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「マサイの花嫁・永松真紀が案内する
ケニアスタディツアー10日間」に参加して 立垣初男


立垣さんご夫妻、永松真紀さん、マサイ族と共に(最左が立垣初男さん)

●2007年9月1日から10日までボーっと考えました

動物は種の保存のために強いものだけが繁殖の権利を持ち、弱いものは淘汰されていく。かつての人間もそうであったかもしれない。
しかし人間は労働を通じて穀類や家畜を生産し、偶然の食物から解放されて、弱いものもともに生きていける社会を永年にわたって築いてきた。
しかし現代社会は、特に日本では格差社会といわれるように、強いものが幅を利かし、弱いものは虐げられるこの現実は、本来の人間の姿ではないと強く感じ、はたして現代社会は社会の発展の中でかつての人間本来の姿を取り戻すことができるのだろうか。
今後マサイの人たちの暮らしはどうなるのだろうか。
さまざまのことを考えさせてくれたのが今回のケニア スタディツアーでした。

●なんか読まずにおれなかった

このツアーは帰国後報告書を出さなければならないとかというものではまったくありませんし、出すべき相手もありません。
しかし、何か書かざるを得ない、何か本を読まざるを得ないそんな「義務感」がふつふつと湧いてきたツアーでした。
 永松さんの嫁ぎ先(?)のエナイボルクルム村で村の人たちと懇談しているときから感じていたことですが、帰ったらL.H.モルガンの「古代社会」とF.エンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」を読み返さなくてはと。
家に帰ってさっそく本棚から引っ張り出した「古代社会」はやっぱりぶ厚くて回避して、「家族・私有財産・国家の起源」の全部は遠慮して「家族」の項だけ読みました。
 モルガンは「人類進歩」を「野蛮時代、未開時代、文明時代」に分け、前二者にそれぞれ「前期、中期、後期」と細分化し全部で7時代に区分しています。それによると、エナイボルクル村の人たちのみならず、伝統を守って暮らしている多くのマサイの人たちの社会の発展段階は「未開時代中期」ということになるのかなと思います。
これはマサイ族が牧畜民族、固有の文字を持たない、鉄器を使わない(鏃には鉄を使っていましたが、これは外部からの移入と思われます。またその鏃には焼が入っていませんでしたが、これは的が外れたときにかえって切っ先を守るためかなとも思いますが)等から判断しました。
また、マサイ族は土器の製作も使用も見当たりませんでしたが、その必要性や条件がなかっただけではないかと思います。
 最近ではホモサピエンスの歴史がどんどんとさかのぼり、アジアでの稲作の歴史も1万年以上も昔からといわれています。今日のマサイ族の暮らしはいったいいつからなんだろうか。
エティオピアで最も古い人間の人骨が発見されたりしていますが、今日の生活様式の基本はいつ頃できて、何年ぐらい続いているのだろうか。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によるとマサイの歴史についての冒頭部分は「マサイ語は言語学的にサハラ・ナイル語族に属し、トゥルカナ湖周辺で話されるトゥルカナ語・カレンジン語などに近い。
マサイ族の間で伝えられている口承史や考古学的な記録によれば、マサイ族はもともとトゥルカナ湖の北部(現在のスーダン・エジプト)に居住していた。それが何らかの原因で南へと移動し、元々住んでいた他部族の吸収・追い出しを行ないながら、北部ケニアから中央タンザニアまでの広い地域に分布したものと見られている」となっているだけで、具体的な年代についての記述はまったくありません。
またエナイボルクルム村については、永松さんの話では彼らの祖先が現在地に来たのは300年位前のことらしい、それ以前、以上のことは文字がないのでわからないということです。
往々にして伝承されるのは(「させる」というほうが正確か)国家と特定の個人が中心で、逆に言えばマサイのように統一国家というものが形成されなかった場合、どんな口承史の内容となっているのでしょうか、興味の湧くはなしですが、小さな村落共同体としての伝えばなしや、口承史などが残ってないのは当然かもしれません。
そして、年齢や生年月日など過去のものに対してまったくこだわらない彼らにとってはるか前のことなどさらに関心の外なのでしょう。もし本当に必要があれば、長老達によって語り継がれていると思います。
過去の歴史や知恵なども現在に生かされなければ継承する必要がない、長い歴史の中で淘汰されてきたのかなと思います。

●知性や理性そして優しさは何によってはぐくまれるか

マサイの人たちと接して私が一番強く感じたのは人間の理性とか知性というものは社会の発展段階に照応するものでは決してないということです。生産力を比べてみるならば、牛を何頭持っているかが重要なマサイと宇宙に衛星を飛ばす日本では比較にならないでしょう。
しかし、人間としての本質的なこと、根源的なこと、あるべき姿などについてはまったく差がないというよりは、われわれの方が劣っているというか、判断することができないと思いました。
第1は弱者優先の考えです。このことを強く感じた出来事は、9月5日の昼食のことです。この日はエナイボルクルム村を歩いて薬草や生活に役に立つ木(歯ブラシになる木やヤスリになる葉、トイレットペーパーになる葉)を見て周り、お昼はマサイ式バーベキューでした。
自分達が飼っている山羊を一頭つぶしてのご馳走です―日本ではニワトリですが。屠殺(・・)から料理まで一貫して目の前で行なわれました。
場所は木が生い茂ったところで、なんとなく神聖な感じがします。お皿の代わりに新鮮な木の葉が使われます。
その木の名前は聞きもらしました。マサイだけではなくナイロビでもそうでしたが、まな板というものを使いません。
それでも野菜のみじん切りもちゃんと出来ます。また山羊の料理も調理台はもちろんまな板などいっさいありません。
少し横道にそれますが、広辞苑(1960年8刷発行の第一版しか手元にないもので)によると屠殺とは「家畜などの獣類をほふり殺すこと」とあります。また、同書によればほふる(・・・)とは「鳥獣などの体を切りさく」とあります。漢字は屠(ワードではこの字になっていますが正しくは者の日の上に`がある)という字になっています。
今度は三省堂の新漢和中辞典(1970年初版第7刷発行)で屠を調べると「屠は俗字、①ホフる㋑殺す。からだをさき、肉をばらす㋺切る「-殺、-腹」と例が出ています。そこで漢字の本国、食の文化の中国語ではどうなっているのかを調べてみると、これは新しいぞ―東方中国語辞典(2004年初版第1刷発行)では「〔動〕(家畜を)殺す、屠畜する」とあり、ついでに屠殺は「〔動〕大量惨殺する」とありました(注:〔動〕は動詞の意)。現代の中国語からは「ほふる」という意味が欠落したようです。
なぜ、「屠殺」という言葉に引っかかったかというと、私が20歳まで住んでいた家のそばに屠殺場があり、そこでは牛が処理されていました。
子どものころに聞いた話では牛の眉間を斧のようなもので一撃するとのことでした。最近は電気銃で眉間を撃つと聞きましたから、多分あっていたのでしょう。
このことがあって、屠殺という言葉に家畜を撲殺するというニュアンスを勝手に感じていたから、マサイの山羊は窒息でしたので「屠殺」という言い方で間違っていないのかなと疑問に思ったからです。
基本的には間違っていないと思いますが、語の順序が逆ではないかな。絞めてからさばくのだから殺屠ではないか。まあどうでもよろしいわ。
元に戻って、マサイのやり方は眉間に一撃をくらわすというハデなやり方ではなく、静かに、静かに息を止めるやりかた(手で絞めます)です。少し時間はかかりますが本当に静かに進行します。
このときにカップを持った子どもが寄ってきました。
大人ばかりの中でたった一人の子ども。
あのカップは何に使うのかな。
何か儀式があって子どもの役割があるのだろうか、不思議に感じました。息の根が止まると最初に首を切って血をとります。
ナイフを入れた途端ピュッと吹き出ました。
最初のカップがいっぱいになると先ほどの子どもが呼ばれました。
そして、飲み始めました。かなりの量ですが、うしろに下がって黙々と飲んでいました。
次はお客さんの番です。ゲストの中で一番病弱(?)の私が飲みました。すっぽんの血をワインで割って飲む場面をテレビ見たことがありましたが、よくそんなことができるなと思っていました。
いざ目の前で山羊が絞められ、自分の前に血が差し出されたのか自分から手を出したのか(多分後者)、何の抵抗もなく飲むことが出来ました。
味は生臭いとかそんなも感じはまったくなく、意外と塩の味を感じました。すうっとはいりました。そして元気が出たような気がしました。なぜ、あの子が最初に飲んだのかというと、病気がちということでした。
山羊はほとんどの血が体内から放出(決して廃棄されるのではなく飲用に使われる)されてから、ほふり(・・・)が始まります。
神聖な木の葉の上で皮が剥ぎ取られ、肉がさまざまな部位に分かれていきます。解体が始まって間もないころ、皮を剥ぎ取られたかけた胸部から腹部にかけての底に当たる部分に真っ赤などろっとした血のひものようなものがありました。
これは一体なんだろうなと思っているところに、横からさっと人が来て、まるでさらうがごとくすばやく手ですくって口に入れ戻っていきました。私は「しまった、あっちの方がうまかったんとちゃうか、早まったかな」と一瞬思いました。
マグロの大トロをさらわれた気分でした。生血を飲んだらこんなにも変わるものなのか。
山羊のからだのほとんどの部分は食用にされますが、人間が食べない部位は犬にやります。一番にもらった犬は妊娠中だから、最初に一番いいところ(もちろん残ったなかの)を与えるとのことです。
村の人たちが飼っている犬は私には日本の雑種犬にしか見えません。
しかし立派な猟犬で、このときも骨をバリボリと食っていました。
さすがにここの犬たちは気合が違うなと思ったのは、犬のケンカでした。数日間村から出て行った犬が不意に帰ってきたとき、義理を欠いたともいうのでしょうか、在村のボスらしき犬が、急に噛み付き始めました。
当然不義理の犬も応戦しました。始めのうちはただの犬のケンカと思っていましたが、なかなかすごい、さすが猟犬同士迫力あるなと思って、さらに続く、どちらがどちらか解らないくらい、噛み付かれたところから血が流れ出す始末。
このまま行けばどちらかが殺されてしまうのではと思うぐらい、延々と続く。もちろんジャクソンたちも仲裁にはいるが、まったく効き目なし。
何しろ双方がっぷり四つならぬ、噛み付き二つで、割るに割れない。棒でたたかれようが、離れてもすぐに噛み付く。「やっぱり、猛獣相手の猟犬や根性が違うわ」ほとほと感心しました。
この後のナイロビや今日の日本の現状からみて、マサイの人たちの優しさは一体何なんだろう、逆に私達は優しさを置いてくることによって経済発展をしたのだろうか。
私は今まで、経済が豊かになることによって、人間は強者も弱者もともに助け合って幸せな世の中が造れるものと思ってきました。
すなわち、ヒトが狩猟だけで暮らしていた時代や食物の栽培を始めたが生産力が極めて低い時代は弱者は自然淘汰されていたかもしれません。
それから生産力があがり、余裕が出てきたら助け合って生きてきたのではないかと思っていました。
しかし、私が目の前で見たこと、感じたことは私の考えを根底から覆すものとなりました。
世界で有数の国内総生産を誇る日本で餓死する人や、ワーキングプアー、ネットカフェ難民、さらに多人数の自殺者など、この現実は一体何なのか。
日本の資本家はあまりにも儲けを優先させすぎている、自分さえよければよい、「我が亡き後に洪水は来たれ」ではないか。

●ケニアの視覚障害者と話をして

このような弱者優先、相互協力という考えはマサイの人たちだけが持っている特性ではなく、人類が本来持っているものと思います。ところが、ナイロビでは経済力は文化がマサイの村よりもはるかに発展しているのに、まったく違っている面を強く植えつけられました。
その1つは9月3日の夜にフィリーさんと夕食をともにして懇談して、ケニヤ視覚障害者の実情を聞いたことです。
フィリーさんは全盲の女性マッサージ師です。資格を取ったのは単身日本へ留学して鍼灸師国家資格を取得。
ケニアでは身体に障害があれば就労できないという法律があり、ましてや医療に携ることはまったく不可能であったようですが、当時の在ケニア日本大使の青木大使が政府に働きかけて法律改正させて、就労が実現したそうです。
法律は変わっても国民の意識はほとんど変わっていないようで、フィリーさんが大きな道路を横切ろうとしたとき、交通量が多くて渡れなかったので一緒に渡ってくれと人にたのんだら、お金を要求されたという経験談がありました。
私がちょうど当日、宿舎の近くのスーパーマーケットで買い物をしたとき、高齢の視覚障害の男性が白杖を持ってレジを出たところで立っていました。私は他の人の買い物が終わるのを待っていたので、そのお爺さんの存在は認識しながらも、それほど意識はしていませんでした。
しばらくすると、店の店員がお爺さんに何か話しかけています。それで私はあまりじろじろと見るわけにも行かず、なんとなしに見ているという風に見ていると、店員は何点か商品を持っています。
そしてなにやら説明していました。すると店員は戻りましたが、お爺さんはなおもたたずんでいます。店員がまたやってきました。
今度はお金の説明を一生懸命しているようでした。一部始終見ていなかったのと言葉がまったくわからないので、これは推測ですが、店員がおじいさんに代わって買い物をし、お金を受け取ってレジを済まし、そしてお釣りを渡しに来たのではないか。
そして物の値段とお釣りと札や硬貨の説明までも。そのとき私はナイロビの大手スーパーのサービスは念がいっているなと思いました。
このことをフィリーさんに話すと、「それは例外中の例外だ。私はそんなことは一遍もない」といわれました。私が見た光景は私の誤解か、それともお爺さんと店員は祖父・孫の関係だったのか。謎だア~。
このスーパーマーケットの話をもう一つ、二つ。この店の名前はUCHUMIといい、買い物をしたのはウゴング店。
夕食用のビール、ミネラルウオターやぶどうなどを買いました。レジで店員がなにやら私に聞いています。
何を言っているのかさっぱり解りません。二、三度聞き返しても解りません。たまらず、列の後ろの人に聞くと「ウチュミのカードは作りますか」とのこと。
私はこの店を常店にする気はないので「いらない」と言いました。同行の誰かが言ったけれど作ってもらえばよかった。
今度来たときに役に立つし、そうでなければ記念になる。惜しいことをしました。
二つ目。レジの方法は店員に優しい方法。日本のように決して店員への労働強化でサービス向上をはからない姿勢です。
どういうことかというと、店員はレジスターの前でいすにキッチリと腰をかけています。座っている方向は店内を向いて、日本のように横を向いていません。客がかごから商品を取り出し、カウンターに並べます。
店員は値段を打ち込んだ商品を後ろへ少しずらすだけ。一人分が済むとカウンターが機械仕掛けで後ろに下がります。
客はお金を払って、急いで商品を袋につめてその場を立ち去ります。
もちろん袋詰めを手伝う店員も何人かいます。レジの店員が座っているのはドバイ空港の免税店でもそうでしたから、立っているのは日本だけでしょうか。
疑問だア~。でも、ナイロビのコンビニの店員は立っていたかな?もっとキッチリ見とけばよかった。
本題に戻って、福祉の充実ってどうなんでしょう。
その国の経済状況に応じてやれることはやるのが本筋ではないのでしょうか。ケニアにおける福祉施策はないに等しいのか、少なくとも現在の日本から比べると、公共施設の点字ブロックや、段差解消などは皆無です。
ケニアの玄関ともいえるジョモ・ケニヤッタ空港も点字ブロックはありませんでした。もちろん障害者用トイレも。
道も歩道が整備されておらず、自動車はビュンビュン飛ばせるのに、人はその横をデコボコ、ドロドロ道を歩かなければなりません。
往復四車線もある道路を渡るのは命がけ、二車線ですら、相当の勇気と決断力を要します。
ナイロビはイギリスが開発した都市で、大きな交差点はほとんどすべてロータリー、それ以外の交差点でも信号はありません。したがって視覚障害者だけでなく、歩行困難者も道路の横断は大変だと思います。ナイロビでは道路は人が横断するのではなくて車が人を横断するところだなと思いました。
ケニアでは障害を持つ人の就労を禁じていた時代があったわけですが、これがいつから、どのようないきさつからそうなっていたのかは解りませんが、私は日本おいてはどうだったのかと考えたとき、昔の絵巻物のなかに身体障害者が描かれているのを見たような気がします。
ただしそれは、物乞いのための演出かもしれませんが。またそのような人々を描くことは決してタブーではなかった、隔離して存在そのものまで否定するような社会ではなかったような気がします。
そして、あんまをしてもらいながらフィリーさんに、昔から日本は視覚障害者の官名に検校があるように、またなかでも17世紀に活躍した八橋検校は現在でもその名をとどろかせていますが、視覚障害を持ちながら活躍した人が今日まで多数いること、そして職業として確立されていたことなど日本の特筆することとして話をしました。
このはなしにフィリーさんはかなり関心を持ったようでしたが、私のあやふやな知識ではこれ以上話を続けることができませんでした。
マサイの人たちのやさしさとナイロビの現状との格差、乖離は一体何なのだろうか。社会の発展がやさしさをどこかにおいてきたのだろうか。
いや違う、社会は要求しなければ、強いものの世界になってしまう。私の友人の全盲のIさんは市役所によく「クレーム」を言っている。
例えば歩道の真ん中に電柱が出ていて思い切り頭をぶつけた。点字ブロックが付いていないので歩道が続いているのか交差点なのかわからない等々。でもそれが大事なんだなと思います。
そのせいか、Iさんの家の周りに新しい点字ブロックがつけられました。ケニアでは日本の青木大使のお陰で障害者にも就労の機会が与えられましたが、果たしてどれくらいの人が就労できているのでしょう。
日本では官民問わず全従業員における障害者の雇用率を1.8以上と義務付けています。
しかし実態は2004年12月の厚労省の発表では民間企業は1.46パーセントに過ぎません。
インターネットで「ケニア 障害者雇用率」で検索しましたがズバリのものはありませんでした。しかし、二件近いものがありました。
一件は参議院のウェッブサイトに、2006年7 月18 日から年7 月28 日までの間に同院がODA調査の一環として行なった「ケニア共和国における調査」というものがあり、これの報告書として同年10月に「第3回参議院政府開発援助(ODA)調査派遣報告書」を発表しています。
それによると「ケニアにおいては全盲者約25 万人、弱視者60 万人と視覚障害者数は非常に多い。その人々の生計は、ほんの一部が教師や電話交換手として働いているものの、大部分は家族の援助を受けたり、路上で物乞いをしたりして生活しているのが現状」としています。
また、もう一件は(財)日本障害者リハビリテーション協会発行の「リハビリテーション研究」(1993年3月(第75号)13頁~15頁)という雑誌に掲載されたケニヤッタ大学教育心理学部のG.K.カルグ教授の「アフリカの社会リハビリテーション 障害をもつ人のQOLを高めるために(抄訳)」というのがありました。
これによると「ケニアでは、障害者は議員になることができないという法律があり、これらの改正が緊急に必要とされる」「ケニアでは障害をもつ男性の多くが障害のない女性と結婚し、幸せな生活を送っている。
しかし残念ながら、障害をもつ女性の結婚率は非常に低い状況である」。ふーん。なんかため息が出てしまいます。
どうすればいいのでしょう。
やっぱり、Iさんのように「文句」を言うことが大事なのではないでしょうか。私はIさんから目が見えないということはどういうことか、少しではありますが、具体的に教えてもらいました。白杖がありますが、座敷やいすに座ってからだの横にいつも決まった距離のところに置くそうです。
しかし何かの拍子に、また誰かが少し位置を変えるとありかが解らなくなり、大変あわてるそうです。目の見えるものからすればほんの少し横にあるではないかと思うものですが、目の見えない人にとっていつもあるところにあるべきものがないと大変だということです。
私は若い頃、こんな光景に出くわしたことがあります。
比較的すいている電車に乗っているとき、とある駅で視覚障害者の人が乗ってきました。その人の白状は折りたたみ式でいくつかに折れてコンパクトになるものでした。その人はいつもそうするのでしょう。座席に座って慣れた手つきで白杖をまるで指をポキポキ折るように畳んで脇に置きました。それからしばらくして、急にあわてて何かを探し出しました。一生懸命、本当に一生懸命捜しています。何も落とした様子もないし、現にまわりには何も落ちていないし。
私は何を捜しているのかまったく見当が付きませんでした。もうすぐ降りる駅が来るのでしょうか、必死で探しています。その真剣な姿に私はまったく声が出ませんでした。すると、背もたれと座席のすきまに白杖が挟まれていたのでした。何とか間に合いました。
その頃の日本はノーマライゼーション、バリアフリーという言葉も概念もなく、障害者が普通に街を歩ける状況ではありませんでした。
しかし今日までになってきたのは、やっぱり「クレーム」を言う、実情を訴える障害者人たちの生の声ではないかと思います。
ケニアでは青木大使の尽力で障害者雇用の道が開かれ、フィリーさんのようにただちにマッサージ師として働けるようになったとはいえ、ノーマライゼーション、バリアフリーはまだまだの状態です。
やっぱり国民の意識が変わらなければ、また変える努力をしなければ、ケニアにも福祉の充実の速度は速まることはないのではないでしょうか。
もし、フィリーさんに会うことがあったら、このことを話しあってみたいと思います。

●キベラスラムを訪問して

ケニヤ経済の発展についてよく知りませんが、イギリスにおける資本主義が発展する過程での労働者の実態とキベラの人たちの生活が似ているような気がしました。マルクスが「資本論」の「第5節 資本主義的蓄積の一般的法則の例証」で当時のイギリスの国勢調査、公式統計や〝枢密院〟による栄養、住宅調査報告書などを引用していますが、ここに書かれている内容がキベラとそっくりなのは改めて驚かされました。すなわち貧富の格差の拡大、下層労働者の住宅、栄養状態の悪化などです。
マルクスはイギリスのこの時期が資本主義的蓄積の研究に好都合としていますが、資本主義が発生し、さらに発展するなかで農民や都市労働者がどんな現状であるかを紹介しています。
そこから感じられるのは資本がより大きくなるために、弱者に多大の犠牲を負わせている姿です。しかし、今日のイギリスを始めEUでは大きく変わっています。日本より国内総生産額がはるかに低い国でも、福祉国家としてきめ細かい社会保障がされたり、大学などの教育費が無償かきわめて低額の国も多々あります。
日本の姿ははるか昔のイギリスの資本家が行なっていた資本主義的蓄積と変わりないことでしょうか。もうそんな段階では決してないのに。

●マゴソスクールでのこと

キベラのなかにあるマゴソスクールというのは「UPEPOアフリカの風ネットワーク」のウェッブサイトによると「『こどもたちに勉強する機会を与えたい。』そんな強い意志をもったキベラの住人リリアンさんが長屋の一角で寺子屋をはじめました」とあります。
ケニアでも教育は義務 (無料) 化されていますが、家庭のいろんな事情や地域に学校がないなどの理由から未就学児童が結構いるようです。
特にキベラでは経済的理由が大きいようです。永松さんの母親代わり早川千晶さんなども大変貢献されているようです。
私達が訪問すると子ども達だけでなく、ボランティアも含めた先生たちで作っているマシモニ・ユース・グループという合唱団歌とが歌と踊りで大歓迎をしてくれました。
ここの子ども達が歌ったCDもあって、帰ってから何回も聞きました。観光客用のプロが作ったCDもありますが、マゴソスクールの子ども達の合唱は不ぞろいの妙というか、同じて和せずか、和して同ぜずか何か不思議な力と魅力を持ったコーラスです。
これを聞くと、あの南アフリカのアマンドラさえ何か物足りなく感じてしまいます。
私は、この学校って将来どうなるのだろう正直心配を感じました。この学校の校長のリリアンの夢はこの学校をもっと大きく立派にしたいとのこと。一日も早くそうなればいいなと思います。
キベラをみてその中で国や公共にいっさい頼らずに学校を運営しているリリアンはすごいなと思います。
ただ、彼女は選挙に行かないそうです。政治には期待できないことが理由のようです。今のケニアでは国家予算のうち学校建設費はまではまわらないようで、エナイボルクルム村でも自分達の村に小学校を作るためには村人達の自力で建てなければならないそうです。
マゴソスクールを運営しているリリアンにとって、彼女の要求を政策化している政党はないのでしょうか。やっぱり声を出して「クレーム」を言わなければ政治は身近なものにならないのではと思いました。

●「フリーダさんの産院」

軍の医療機関で30年間働いてきたフリーダさんが、そのキャリアを生かしてキベラに作った産院が「フリーダさんの産院」です。キベラの住人が清潔で安心して出産さんが出来るようにと私財を投入して作った施設です。私達の懇談の中で当初の思いとは違い、そんなに多くの人が来ないそうです。それは費用が払えないからだそうです。ほんと深刻です。

●外国でも頑張る日本人

・自らの失敗を外国でなぜ繰り返す

ケニアで長年獣医師として活躍しおられる神戸修平さんの話を聞きました。神戸さんは環境問題にも取り組んでおられ、とくに日本のODAがケニアで引き起こしている問題点などについて伺いました。この話の中で感じたのは日本国内では大型の公共事業による自然や環境破壊が大きな問題になって、中止や見直しが余儀なくされているのに、また公害についても規制がされているにもかかわらず、そのような教訓を生かさず、国内で仕事の減った大手ゼネコンに談合で仕事を回しているODAと政府の姿勢に怒りを感じました。

・サイディア・フラハ

ナイロビの隣のキテンゲラ県にあるサイディア・フラハという施設では日本人の荒川勝巳さんが活躍していました。まずウェッブサイトから紹介します。
「サイディア・フラハ」とは、スワヒリ語で「幸福の手助け」という意味です。サイディア・フラハは1994年3月。ケニア政府からNGO登録されました。S.F.Oとは「Saidia Furaha Organization」の略です。ケニアの子供・婦人と共に生きるNGOです。
サイディア・フラハの目的
・スラムの子供達の教育。
・母子家庭の母親の自立。
・擁護施設運営。
・地域コミュニティーの支援
荒川勝巳(あらかわ・かつみ)さんの略歴
1985年 3月アフリカへ渡る。東アフリカを見てまわり、ケニアの首都ナイロビの養護施設で、通いのボランティアとして働く。12月まで働き、一時帰国する。
1987年 1987年~1990年までナイロビ近郊の孤児院で働き、海外ボランティアについて学ぶ。
1992年 アフリカの貧しい子供たちのことが忘れられず、自分で養護施設を作ろうと考え、再びケニアへ渡る。
4月、ケニア人の友人デニス・コーデさん、ピーター・カルリさんと共にケニアのストリートチルドレンを援助するためのNGO作りと、養護施設設立の準備にとりかかる。
1993年 2月、ナイロビ近郊のキテンゲラ村に土地を購入。
3月、建物を建設。
7月、貧しい子供のための保育所を開く。「サイディア・フラハ」地域自立支援センターとして活動開始。
これ以降、毎年ケニアで8ヶ月ほど活動し、4ヶ月を日本でのサイディア・フラハの活動紹介や講演会、アフリカの子供たちと日本との交流にあてている。
以上のようになっています。
私は荒川さんの何も求めず、やらなければならぬことを淡々としている姿勢に深く感銘しました。こんなところにもすごい日本人がいるもんですね。

●ケニアでは大阪がもてる

ナイロビのマサイマーケットで買い物をしました。そんなに広くはない広場に露店がたくさん出ています。私はハリガネの自転車と特産の石で出来た宝石入れ箱を2つとビーズの時計バンド、木匙を買いました。宝石入れは薬入れと筆箱として使っています。ハリガネの自転車は日本は湿気が多いのか錆びてきています。
にわか仕入れのスワヒリ語でBei gani(これなんぼ)と聞くと、もちろんスワヒリ語で返ってきます。さっぱりわかりません。英語もあまり通じず、結局は筆談。少しまけてもらいました。
ところでケニアの人たちの間で、日本のトレンドは大阪です。
国際陸上があったからでしょう。日本人と見ると大阪と聞いてきます。品物を物色していると、ケニアにもあるのかと思った懐かしい武器がありました。
私が子どものころよく狩をしたパチンコというY字型の小枝にゴムをかけて小石を飛ばすオモチャです。これでよく雀を打ってみんなで焼いて食べました。これは何かと聞くと「カダプーチ」とのこと。
使い方も使用目的もパチンコとまったく一緒で、どこでつながってるのかな、なんかおもしろいなと思いました。
またブラブラしていると露天商の兄ちゃんが話しかけてきました。やはり大阪からと聞くので、いや西宮といっても意味がないので、イエスと答えるとその兄ちゃんが自己紹介を始めました。
“私はニッサンだ”というのです。すかさず、“私はトヨタ”だと答えると、横にいたもう1人が“オレはダットサン”といい、3人が顔を合わせて笑いました。日本が経済的に進出してるせいでこんな冗談が国際的に通用するんだなと思いました。

●あああふりかにいるんや

エナイボルクルム村でキャンプをしているとき、焚き火を頼りに話が弾み夜もふけたころ、あたりは真っ暗ななか、マサイのママたちが歌う歌が聞こえてきました。夜空には南十字星はないけれど少し遠くに聞こえる歌声に、自分は今アフリカのケニアのイナカで野営をしているんやとしみじみ感じました。
スタディツアーというものに参加したのはまったく初めてです。冒頭にも書きましたがスタディツアーとは言え、なんら報告の義務も必要もありません。しかし、何か書き残したい、そしてケニアで感じたことをもっと深く考えたい、そして日本をもっと良く見つめてみたい。日本のよいところもたくさん見えてきた。還暦を迎えて気力や集中力はかなり劣化していますが、文字通り老骨に鞭打って学んで行きたいと思います。永松さんやジャクソンをはじめ多くの皆さんに感謝してこの文書を終わります。
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